farewell life (music version)

懐かしのメロディー( 邦楽、洋楽 ジャンルは問わず )などをアップしていきたいと思います。基本的にはその日が命日のミュージシャン、作曲家など動画を交えて紹介してまいります。※敬称は略させていただきます。  亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。 尚、管理人の都合上更新ができなくなる場合がありますのでご了承ください。

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1916年1月19日 - 1990年8月26日 小倉 朗 おぐら ろう ( 作曲家 )

2013.08.25

category : クラシック

小倉 朗 おぐら ろう ( 作曲家 )

鉄道技師の5男として福岡県北九州市門司の鉄道官舎に生まれ、生後3ヶ月から東京日本橋木挽町の銅鉄商小倉家の養子として東京に育つ。1933年、早稲田第一高等学院中退。1934年、東洋音楽学校中退。1936年、明治大学文芸科中退。

深井史郎や池内友次郎からフランス近代音楽を学んだが、ヨーゼフ・ローゼンシュトックにベートーヴェンの交響曲の指揮法を学ぶうちに次第にドイツ古典音楽に傾倒し、交響曲などを書くが、その内容があまりにドイツ古典主義的だったため、“オグラームス”と綽名されたほど。しかし、その後西欧の古典一辺倒に行き詰まりを感じ、それまでのほとんどの作品を破棄。

その後はバルトークに傾倒し、日本民謡やわらべうたを題材にした作品を手掛けて新境地を開く。

座光寺公明 (1958-87) の師。



      
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1915年3月20日 - 1997年8月1日 スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Teofilovich Richter ( ピアニスト )

2013.07.31

category : クラシック

スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Teofilovich Richter ( ピアニスト )

1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼い頃に一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。 リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され多くのオペラ曲の初見を経験した。1934年、19歳の時にショパンのみのプログラムによる小規模な初リサイタルを開き、成功を収めた。

1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事した。彼はその時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残しているが、リヒテル自身はネイガウスから多くの事を学んだと言っている。ネイガウスはリヒテルを天才であるといい、時に荒削りの演奏をあえて治そうとはしなかった。同門のエミール・ギレリスは1歳年下だがモスクワ音楽院では2年先輩にあたる。

リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を初演し成功を収めた。翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った。以後ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。プロコフィエフが政府から反革命的と批判されたときも常にプロコフィエフと活動を行った。

1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。そのため西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待って下さい」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。

1958年にはこの年の2月25日にブルガリアのソフィアで行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。ムソルグスキーの展覧会の絵などを含むこの録音は不朽の名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた。同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について「生涯で聞いたなかでもっともパワフルな演奏であった」と帰国後に語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなった。

翌1959年にはドイツ・グラモフォンのスタッフがワルシャワに乗り込んで録音が行われ、数枚のレコードが発売された。その中でも特にスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演したラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音はこの作品の決定的名演と称えられ、その評価は現在に至るまで揺るいでいない。

1960年5月にようやく西側での演奏を許可され、ヘルシンキでのコンサートに「伴奏者」として派遣された。同年中にはアメリカへもツアーしてセンセーショナルな成功を収めた。この時に録音されたブラームスのピアノ協奏曲第2番(共演はエーリヒ・ラインスドルフ指揮シカゴ交響楽団)やベートーヴェンのピアノソナタ第23番のレコードも評判となり、いよいよ西側でも本格的にその実像を知られるようになった。

その後は名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的に活動した。同時代にアメリカを拠点に活動したウラディミール・ホロヴィッツと並び称されることもあった。

日本へは飛行機嫌いのためなかなか訪れることがなかったが、1970年の日本万国博覧会の際に初の訪日が実現した。それ以降は度々来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった。

オレグ・カガンをはじめとする他の演奏家との共演も活発に行い、西側を含む各地で音楽祭を主催した。特に1981年から毎年冬にプーシキン美術館で開催した音楽祭「12月の夕べ」は絵画の展示とテーマを共有するユニークなスタイルのものだった。晩年に至っても技巧の衰えを豊かなタッチで補いつつ意欲的な活動を続けた。

特に彼の理想としていたのは、ピアノをトラックに積んで旅行し、前触れなく教会のある街でピアノを無料で演奏し、また旅にでるという生活であり、それに近い形の多くのコンサートを行った。

1997年8月1日、モスクワで82年の生涯を閉じた。生涯の伴侶であったニーナ・ドルリアも同年に亡くなっている。



      
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1908年4月5日 - 1989年7月16日 ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan ( 指揮者 )

2013.07.15

category : クラシック

ヘルベルト・フォン・カラヤン Herbert von Karajan ( 指揮者 )

1955年より1989年までベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者・芸術監督を務め、一時期それと同時にウィーン国立歌劇場の芸術監督やザルツブルク音楽祭の芸術監督などのクラシック音楽界の主要ポストを独占して、圧倒的な権力を誇った。20世紀のクラシック音楽界において最も著名な人物のひとりであり、日本では「楽壇の帝王」と称されていた。



      
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1911年12月5日 - 2000年7月6日 ウワディスワフ・シュピルマン Władysław Szpilman ( ピアニスト、作曲家 )

2013.07.05

category : クラシック

ウワディスワフ・シュピルマン Władysław Szpilman ( ピアニスト、作曲家 )

ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家。長男のクリストファー・W・A・スピルマンは日本近代右翼思想の研究者で、九州産業大学教授である。

幼少時からフランツ・リストの弟子であったヨセフ・ミスドヴィッチとアレクサンデル・ミハロフスキにピアノを学んでいる。ワルシャワのショパン音楽院でピアノを学び、20歳からベルリン音楽大学でレオニード・クロイツァーとアルトゥール・シュナーベルに師事した。しかし、1933年、ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワでポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始める。

この時代、シュピルマンはクラシック音楽の演奏活動のほか数多くの大衆音楽を作曲、自らも演奏した。なかでも彼が作曲し、カジミェシュ・ヴィンクラー(Kazimierz Winkler)が作詞した明るいジャズ調の歌謡曲『ワルシャワの赤いバス』("Czerwony Autobus")は現在でもポーランド人が最も愛する曲の一つとして現在でもよく歌われており、ポーランド人はこの歌とともに戦前の美しいワルシャワの街を想像するのである。この曲は著作権もすでに切れており、現在では動画サイトの発達によりYoutubeなどで視聴できる。ワルシャワの市バスの色は赤が基調で、現在では上半分を白にしてポーランド国旗を表す場合と、上半分を黄色にしてワルシャワ市旗を表す場合がある。

1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を目の当たりにする。家族全員が絶滅収容所送りとなり、ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって命を救われた。

戦後はポーランド放送へ復職。1946年に戦時中の体験をまとめた「ある都市の死」を出版し、2002年にはこれを原作とした映画『戦場のピアニスト』が公開された。

2000年に脳溢血で入院中に死去。

世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残した。作曲は一部フランツ・シュレーカーに学んだとも言われているが、実際のところは彼の音楽の人気は管弦楽にとどまらず大衆音楽におよんでおり、ずっと幅広いジャンルで活躍している。1972年までに500曲を作曲し、そのうち幼児・児童向けの愛唱歌やポップスも含め約100曲は現在でもポーランド人なら誰でも知っているほどの、ポーランド音楽のスタンダードナンバーである。1961年にはオーガナイザーの一人としてポップスの祭典「ソポト国際音楽フェスティバル」を初開催、日本ではあまり知られていないが毎年夏に開催されるこの音楽祭は、ユーロヴィジョンと並ぶヨーロッパ最大の音楽祭の1つとなっている。1963年に結成したジャズ・ポップス・クラシックなど幅広いジャンルを扱うワルシャワ・ピアノ・クインテットの初代メンバーの1人としては1986年(75歳)まで国内外で精力的に演奏活動をし、彼はポーランド国民から最も愛された音楽家の1人であった。



      
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1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日 瀧 廉太郎 たき れんたろう ( 音楽家、作曲家 )

2013.06.28

category : クラシック

瀧 廉太郎 たき れんたろう ( 音楽家、作曲家 )

1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。瀧家は江戸時代、日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄である。 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や富山県富山市、大分県竹田市等を移り住んだため、瀧も生後間もなくから各地を回ることとなった。

1894年(明治27年)に15歳で東京音楽学校(現:東京藝術大学)に入学する。1898年に本科を卒業し、研究科に進む。こうして瀧は作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていった。1900年10月7日には東京市麹町区(現:千代田区)にあった聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で洗礼を受けてクリスチャンになり、10月28日にジョン・マキムから堅信礼を受けた。

明治時代の前半に多くの翻訳唱歌ができたが、日本語訳詞を“無理にはめこんだ”ぎこちない歌が多く、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていた。瀧は最も早く、その要望に応えた作曲家と言えるだろう。彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。また、人気の高い曲のひとつである「花」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」(童謡「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年に編纂された幼稚園唱歌に収められた。また「荒城の月」は、ベルギーで讃美歌になったことも判明した。

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生として、東部ドイツのライプツィヒにあるライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーン)に留学する。文部省外国留学生として入学、ピアノや対位法などを学ぶが、わずか2ヶ月後に肺結核を発病し、1年で帰国を余儀なくされる。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。満23歳没。結核に冒されていたことから死後多数の作品が焼却されたという。

瀧家の墓所は日出町の龍泉寺であるが、瀧は父と親交のあった大分市金池町の万寿寺に葬られた。戒名は直心正廉居士。



      
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