farewell life (music version)

懐かしのメロディー( 邦楽、洋楽 ジャンルは問わず )などをアップしていきたいと思います。基本的にはその日が命日のミュージシャン、作曲家など動画を交えて紹介してまいります。※敬称は略させていただきます。  亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。 尚、管理人の都合上更新ができなくなる場合がありますのでご了承ください。

検索フォーム
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
京王百貨店
京王百貨店
千趣会イイハナ
e87.com(株式会社千趣会イイハナ)
ふくや
味の明太子ふくや
日本直販
日本直販オンライン
伊勢丹
伊勢丹 : ISETAN MEN'S ONLINE SHOP
au one la Select
au one la Selectサイトロゴ2
いぬ・ねこ の きもち
いぬのきもち&ねこのきもち
Odakyu online shopping
小田急オンラインショッピング
ONWARD KASHIYAMA
オンワード樫山公式ファッション通販サイト
トイザらス・ベビーザらス
ベビーのおもちゃ【ベビーザらス】
ユナイテッド・シネマ
ユナイテッド・シネマ 最新映画を自動更新でご紹介!
ワーナー・マイカル・シネマズ
映画館で並ばずにチケットが買える!
link share
アフィリエイトのリンクシェアで、チャリティ活動

スポンサーサイト

--.--.--

category : スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1929年8月1日 - 2000年8月17日 徳永 善也 とくなが よしや ( ミュージシャン チェッカーズ )

2013.08.16

category : J ポップ

徳永 善也 とくなが よしや ( ミュージシャン チェッカーズ )

小学生時代によく黒いジャンパーを着ていたため、クロベエと呼ばれるようになった。

チェッカーズが結成された1980年、メンバーに車に連れ込まれ、「山に埋める」と脅されて加入させられた経緯を持つ。それまでは別のバンドに所属していた。チェッカーズは1983年にデビュー。解散まで在籍し、そのひょうきんなキャラクターでも親しまれ、ステージ上だけでなく様々なバラエティ番組などでも人気を博した。

徳永の実父は会社を自営していたが、1985年年末仕事のため車で移動中、踏切事故で他界。この事故について補償などの後処理は、チェッカーズの所属事務所・スリースタープロが行ったという。チェッカーズは1992年一杯で解散し、藤井兄弟・武内・大土井はスリースタープロを事情あって退社したが、徳永は高杢・鶴久とともに社に残った。これは鉄道事故補償の恩義を徳永が通したからだといわれる。

1993年、『リトルバッハ』を結成。準備期間を経て1995年より本格的に活動を開始する。しかしその後、徳永をリーダーとして結成されたバンド、リトルバッハはライブ動員、CD売り上げともに伸びず、スリースタープロの決定により1998年に解散。徳永は事務所を退社、一時芸能活動を全て停止の上、大型トラックの運転手をして生活を支えていた時もあったという。

チェッカーズ解散後は鶴久政治のレコーディングにドラマーとして参加したり鶴久のライブにドラマーとして出演していた。2002年、博多時代からの仲間隈富太郎がきっかけで隈が率いるバンド、『WILD-G』に加入。当時このバンドはサウンドプロデューサーとして武内享を迎えていた。

癌発覚直前の2003年、平行してチェッカーズ時代の仲間である武内享・大土井裕二・藤井尚之とアブラーズを結成。精力的に音楽活動を行っていたが、間もなくして舌癌を患い、その後入退院を繰り返していた。2004年8月17日、舌癌によりまだ40歳の若さで死去。生涯独身であった。



      
wikipedia jp

スポンサーサイト

comment(0)  trackback(0)

1971年1月23日 - 2009年7月28日 川村 カオリ かわむら カオリ ( 歌手 )

2013.07.28

category : J ポップ

川村 カオリ かわむら カオリ ( 歌手 )

父親が日本人(商社駐在員を務めていた川村秀・現日露文化センター代表)で母親がロシア人(母、エレーナ・アレクサンドロヴナ・スクドノーヴァ)のハーフ。モスクワで生まれる。幼い頃に正教の洗礼を受ける。聖名はアナスタシア(ギリシャ語で「復活」「復活した女」を意味する)。

11歳の時に家族と共にモスクワから千葉県に移住。帰国後に編入した小学校で、「純粋な日本人ではない」、「ハーフ」と揶揄を受け、壮絶ないじめに遭う。上履きを隠され、教科書を破かれ、給食にゴミやゴキブリを入れられ、「川村かおりを殺す会」が作られるまでに至った。都内の中学校に進学した1983年、ソ連による大韓航空機撃墜事件が起きる。教師から「この外道が! ソ連に帰れ!」といわれのない非情な言葉を浴びせられたという。 時には刃物で傷つけられる事もあったという。

1986年、東京都立田柄高等学校に進学。選択教科は音楽ではなく美術。新宿Loftやツバキハウスなどに頻繁に出入りするようになったのもこの時期である。そこで音楽関係者と知り合い、後にデビューの足掛かりとなった。

1987年、都立校を中退し渡英。ライブハウスに通い詰める。暫くして英国四天王寺学園高等学校(2000年閉鎖)に編入、単位を修得し卒業。程なく帰国する。

1988年に辻仁成プロデュースにより、シングル「ZOO」および同名アルバムでデビュー。

1990年、「神様が降りてくる夜」が『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のテーマ曲となりヒットする。1991年には「翼をください」もヒット。音楽番組だけではなくバラエティ番組などにも出演するようになる。また、モデルとして雑誌やショーに出演する機会が増えた。

1989年4月から1991年6月までニッポン放送『オールナイトニッポン』土曜2部のパーソナリティを務めた。番組中、電話でゲスト出演した大槻ケンヂと同じ、田柄高校の出身と分かり、話が盛り上がる。また当時のソビエト連邦大統領、ゴルバチョフにリスナーから質問をする趣旨を掲げた「ゴルバチョフへの手紙」というコーナーもあり、簡単なロシア語を披露した。実際にロシア語で綴った手紙を大使館を通じてゴルバチョフに届けたことがある。それがきっかけとなり、大統領と電話で話す機会を得るなど話題となった。ゴルバチョフの来日が決定すると、当時の内閣総理大臣であった海部俊樹の名前で晩餐会への招待状が届く。短時間ではあったが面会も叶い、その模様も番組で放送された。「子どもの頃はコンプレックスであった自分の血を、いまは胸を張って誇りに思える」と語った。

1991年、『東京の休日』で映画初主演。1992年、エッセイ集『volume―僕の手の中』を発表。

1993年より活動休止し、ニューヨーク等で生活。1995年6月、音楽活動を再開。所属レコード会社を移籍し、シングル「Big Beat」を発表した。1996年、NHK-BSのテレビドラマ『新宿鮫』に出演。1997年、『新宿鮫・毒猿』に出演。

1998年、クラブ向きの音楽制作を目的としたソロプロジェクト「SORROW」を開始し、クラブイベントでのDJとしても活動を始めた。また、モデルの坂田かよと共にクラブイベント「696」を開催。この頃、「川村かおり」から「川村カオリ」に改名した。また同年、母が乳癌で永眠。

1999年2月、バンド「SOBUT」のギタリストであったMOTOAKIと結婚。同年、手塚眞監督の映画『白痴』に出演。

2000年、「SORROW」のメンバーに中村達也を加えてイベントを全国で展開。以降、夫を含む4人編成のバンドとしてインディーズで活動を続ける。MOTOAKIとの写真集『True Romance』(撮影:ニッキー・スターキー)を出版。

2001年、ツアーの様子を自ら撮影したドキュメンタリー映画『696 TRAVELING HIGH』を発表した。同年、行定勲監督『贅沢な骨』に出演。また同年12月には長女を出産。

2003年、ユニバーサルミュージックよりアルバムを発表し、メジャーデビュー。またこの年からMOTOAKIとの別居生活を始めた。

2004年、乳癌が発覚。左乳房の切除手術と抗がん剤治療を経て、2005年に芸能活動を再開した。9月、フォトエッセイ『Helter Skelter』を発表。少女期に受けたいじめや、音楽活動の紆余曲折、乳癌を患った事とその闘病生活などを明かした。2006年、手塚眞監督の映画『BLACK KISS』で主演を務める。

また、国内アパレルブランドのモデルとしてパリ・コレクションなどのファッションショーに出演。

2007年、「SORROW」の活動休止(実質解散)を発表。同年、北村龍平監督の『LOVE DEATH』に出演。6月には3年半の別居の末MOTOAKIと離婚。また、6月20日に発売されたTHE NEATBEATSのアルバム『JAPANESE ROCK & ROLL ATTACK!!ロックンロールの逆襲〜日本編』に、「ロックンロール・ウィドウ」のカバーで参加。9月29日、ピンクリボン運動のイベントでトークショーに出演。「年に1度はマンモグラフィー検査に行ってほしい」と訴えた。イベント終了後の記者会見では、話し合いを経て共に悔いの無い心境で離婚届を提出した事、長女の親権は川村が持つ事などを明かした。

2008年10月1日、ブログで癌の再発を発表。同日に参加したピンクリボンフェスティバル終了後の記者会見では、昨年関節炎と診断された胸の痛みの原因が実際は癌である事が1月に判明、リンパ節・骨・肺の3ヶ所に転移しており、手術が不可能なため点滴での抗がん剤治療を続けている事を明かした。

2009年1月23日、11年ぶりの誕生日ライブを東京・原宿アストロホールで行う。「バタフライ」など7曲を歌った。

3月22日、東京渋谷HMVでシングル「バタフライ」と書籍『MY SWEET HOME』の発売記念インストアライブにて、トークと「バタフライ」を1フレーズ歌い、握手会を行った。

4月4日、単発特番の川村カオリのオールナイトニッポンが放送される予定だったが、体調不良のため川村本人は生出演せず、急遽『川村カオリのためのオールナイトニッポン』として放送された。MCは構成作家の鈴木おさむ。

5月5日、東京渋谷CCレモンホールにてライブを行った。全席完売の会場で全13曲を歌い、合間にオールナイトニッポンの公開録音を行った。公演中は椅子に座った状態だったが、アンコールの『ZOO』ではギターを抱えて立って歌った。ゲストは鈴木祥子、浅井健一、高橋研、吉川晃司、渡辺俊美、鈴木彩子で、13年ぶりのフルアルバム『K』に参加したメンバーが入れ換わりで演奏した。

5月27日、13年ぶりのフルアルバム『K』を発売。同年7月1日、ブログで癌の新たな転移が見つかったことを報告。

7月28日午前11時01分、乳癌のため都内の病院にて永眠。38歳没。

正教徒であったカオリのために、7月30日晩にパニヒダ(通夜)が、31日昼に埋葬式(葬儀)(埋葬式は主教祈祷)が、日本正教会最大の教会であるニコライ堂で行われた。友人・知人からの献花の後、聖堂に川村のCD、ギター三本などが聖堂内に並べられた。喪主は、カオリの弟である川村忠が務めた。



      
wikipedia jp     wikipedia eng

comment(0)  trackback(0)

1953年2月28日 - 1999年6月24日 村下 孝蔵 むらした こうぞう ( シンガーソングライター )

2013.06.23

category : J ポップ

村下 孝蔵 むらした こうぞう ( シンガーソングライター )

CBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。これがきっかけとなって27歳にしてプロ歌手としてデビューすることになった。プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると、村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれ、「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともありデビューが決定した。1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。1981年発売の「春雨」は約3か月半、1982年発売の「ゆうこ」は約7か月半にわたってチャートインした。この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、この時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。

1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。『初恋』は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという。

『初恋』発売の前後に村下は肝炎を患い、『初恋』がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。

1989年、アルバム『野菊よ 僕は…』を発売。須藤晃によるとこの頃アルバムの売れ行きが落ち込みを見せ、村下にも須藤自身にも焦りが生じたという。1992年発売のシングル『ロマンスカー』は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作し、完成時に村下が「やっと納得する作品が出来た!」と語った渾身の作品であったが売れず、須藤は「時代が違ってきたんだ」と感じたという。この時期の村下は試行錯誤の末、「自分には"初恋"を越える曲はできんかもしれん」「時代は追いかけるものではなく、巡りくるもの。向こうからやってくるのよ」という境地に至った。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1942年12月15日 - 1990年6月17日 出門 英 でもん ひで ( 歌手、作曲家、俳優 )

2013.06.16

category : J ポップ

出門 英 でもん ひで ( 歌手、作曲家、俳優 )

水木 英二(みずき えいじ)の芸名で日活第6期ニューフェースに合格後、日活での約1年間の俳優活動と並行して1962年にソロ歌手として『東京ロマンチックガイ』で東芝レコードからデビュー。

その後出門ヒデと改名し、1966年佐藤由紀と「ユキとヒデ」を結成・活動したが解散。ちなみに佐藤由紀は後に藤ユキ、さらにアン真理子として再デビュー、「悲しみは駈け足でやってくる」を1969年にヒットさせる。

1968年に、後に妻となるイタリア出身のロザンナ・ザンボンと「ヒデとロザンナ」を結成。デビュー曲の『愛の奇跡』が大ヒットして、一躍売れっ子歌手の仲間入りを果たす。以降も『愛は傷つきやすく』などヒット曲を連発。また作曲家としても小柳ルミ子に『星の砂』(1977年、作詞は関口宏)、森昌子に『彼岸花』(1978年)を提供、ヒットさせている。

1975年2月にロザンナと結婚し、俳優としてもテレビドラマ『必殺仕事人V・旋風編』や『毎度おさわがせします』(第3シリーズ)、映画は『光る女』『東京上空いらっしゃいませ』(遺作)等の相米慎二監督作品に出演して活躍していた。

出門は仕事の傍ら、癌の研究・啓発活動や基金事業にも奔走している(出門の実母も癌で早世している)。多忙な日々を送っていたが、原因不明の下痢を患い、医者に見てもらった結果、結腸がんと判明し休業。半年程の闘病生活を送るも、入院手術時は既に末期で手遅れの状態だった。一時退院後に妻と共に、自らが経営していたゴルフショップの新ブランドの発表会の記者会見で見せた時には、元気だったが急激に痩せており、目をサングラスで隠す等をしていたが、これが最後の公の場になった。その後間もなく、再入院するも癌が肺に転移していた。

(イタリア出身で)敬虔なカトリック信者の愛妻ロザンナや愛児らの「生まれ変わっても(出門の生まれ変わりと)家族でありたい」という願いもあり洗礼を受け、1990年6月17日に入院先の東京都内の病院で死去。47歳という若さだった。葬儀は三軒茶屋カトリック教会で執り行われた。亡くなる8日前に上映された『東京上空いらっしゃいませ』が遺作となった。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1941年9月13日 - 2000年5月30日 井上 大輔 いのうえ だいすけ ( ミュージシャン、作曲家 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ )

2013.05.29

category : J ポップ

井上 大輔 いのうえ だいすけ ( ミュージシャン、作曲家 ジャッキー吉川とブルー・コメッツ )

1963年、ジャズ喫茶で演奏中、ジャッキー吉川・大橋道二にスカウトされジャッキー吉川とブルー・コメッツに参加、リード・ヴォーカル、フルート、サックスを担当。作曲も行い、「青い瞳」「ブルー・シャトウ」などの曲を書いてヒットさせた。なお、ブルコメ参加時に寺内タケシの勧めでそれまでしていたメガネからコンタクトレンズに変えている。

1972年のメンバーチェンジ(実質的な解散)後、作曲家に転身。「学園天国」「ランナウェイ」など、数多くのヒット曲を放った。

1981年1月のジャッキー吉川とブルー・コメッツ再結成に参加した後に井上大輔に改名。ロカビリー時代に内田裕也がとっさに「井上ダイスケ」と誤って紹介したことから、仲間内では「ダイちゃん」と呼ばれていたのがもともとのきっかけ。
日大芸術学部の同級生で友人の富野喜幸(現:由悠季)の頼みで手掛けた劇場版『機動戦士ガンダム』シリーズの主題歌「哀・戦士」(第2作)、「めぐりあい」(第3作)や、コカ・コーラのCM曲「I FEEL COKE」などのソロ作品がヒットした。
サックス・プレイヤーとして、山下達郎の「悲しみのJODY」「スプリンクラー」などに参加している。

2000年5月末、網膜の疾患を苦に自宅で自殺。満58歳没。



      
wikipedia

comment(0)  trackback(0)

カテゴリ
リンク
インターネットお取り寄せショップ
懐かしのメロディリクエスト掲示板
Fujitsu
【125*125】特価品
ブックオフオンライン
ブックオフオンライン
チケットぴあ
チケットぴあ
Fujitsu
富士通パソコンFMVの直販サイト富士通 WEB MART
Amazon 無料配送
book off online
ブックオフオンライン
ANA旅行積立プラン
ANA旅行積立プラン
HMVジャパン
HMVジャパン
iTunes Store(Japan)
 iTunes Store(Japan)
iTunes Store(Japan)
 iTunes Store(Japan)
Sony Music Shop
Sony Music Shop
仁丹堂
創業116年目の新JINTAN
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
blogmura
follow us

Copyright ©farewell life (music version). Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。