farewell life (music version)

懐かしのメロディー( 邦楽、洋楽 ジャンルは問わず )などをアップしていきたいと思います。基本的にはその日が命日のミュージシャン、作曲家など動画を交えて紹介してまいります。※敬称は略させていただきます。  亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。 尚、管理人の都合上更新ができなくなる場合がありますのでご了承ください。

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1925年(大正14年)2月21日 - 2003年(平成15年)9月2日 笈田 敏夫 おいだ としお ( ジャズ歌手 )

2011.08.31

category : ジャズ

笈田 敏夫 おいだ としお ( ジャズ歌手 )

経歴

戦時中は海軍に召集され、大分で終戦を迎える。 戦後、数々のバンドを転々とし、1953年(昭和28年)ビクターからレコードデビュー。 1957年(昭和32年)慶應義塾大学卒業。翌年『嵐を呼ぶ男』に出演する。

1990年(平成2年)にテレビドラマ花王 愛の劇場『家族って』に出演する。

1994年(平成6年)にはニューヨーク公演を行った。

1995年(平成7年)勲四等瑞宝章を受章。

大橋節夫と長年に渡って親交があった。

2003年(平成15年)9月2日、腎孟ガンにより死去。享年78。

1953年(昭和28年)から連続8年、NHK紅白歌合戦に出場している。

生放送中心の黎明期のテレビ界に於いて、1ヶ月間に30本余りの生放送出演をした事がある。



      
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明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日 竹久 夢二 たけひさ ゆめじ ( 画家・詩人 )

2011.08.31

category : 画家

竹久 夢二 たけひさ ゆめじ ( 画家・詩人 )

人物

数多くの美人画を残しており、その作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家である。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。

彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。

世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。



      
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訃報:声優・ナレーターの滝口順平氏が死去

2011.08.30

category : 声優、俳優

滝口順平氏(たきぐち・じゅんぺい、本名・幸平=こうへい=声優・ナレーター)29日、胃がんのため死去、80歳。葬儀・告別式は近親者で行う。

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1933年1月1日 - 1972年8月31日 白木 秀雄 しらき ひでお ( ジャズ・ドラマー )

2011.08.28

category : ジャズ

白木 秀雄 しらき ひでお ( ジャズ・ドラマー )

経歴

東京府東京市神田区(現・東京都千代田区)の酒屋に生まれる。錦城中学校を経て東京芸術大学音楽学部打楽器科に入学(のちに中退)。この年の打楽器科入学生は2名で、もう1人は指揮者の岩城宏之であった。芸大在学中にキジ西村の勧めでブルー・コーツに参加し、ジャズ・ドラマーとしてのキャリアを開始する。

レイモンド・コンデとゲイ・セプテット、河辺公一とゴールデン・チャリオティアーズを経て、1953年に初のリーダーバンド、白木秀雄トリオを結成するが間もなく解散。その後、小野満とフォアブラザーズ、与田輝雄とシックス・レモンズを経て、渡辺プロダクションに所属し、1957年4月に白木秀雄クインテットを結成。1959年に水谷良重と結婚し(1963年離婚)、時代の寵児としてマスコミを賑わせた。

1965年10月、ヨアヒム・ベーレント(en)の招きで白木クインテットとしてベルリン・ジャズ・フェスティバル(de)に出演するが、帰国後、白木のわがままに耐え切れなくなったメンバーが次々に脱退。新メンバーを迎えたものの仕事数が激減し、1968年5月に解散。同時期に渡辺プロダクションからも解雇された(メンバーチェンジ以降赤字続きだった)。

白木クインテットの解散後はジャズ界から離れる。1972年9月1日、赤坂のアパートの自室で腐乱死体となって発見された。死因は睡眠薬中毒で、晩年はかなり荒れた生活を送っていたという。



      
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1929年2月26日 - 1992年8月30日 五社 英雄 ごしゃ ひでお ( 映画監督、脚本家 )

2011.08.28

category : 映画

五社 英雄 ごしゃ ひでお ( 映画監督、脚本家 )

人物・来歴

テレビドラマの『刑事』や『ジキルとハイド』ではプロデュースも担当。原作・脚本・監督とこなす映画監督でもあった。

『ひらけ!ポンキッキ』の企画にも携わり、企画書を提出した人物でもある。

代表作は時代劇の『三匹の侍』。テレビドラマ放送後に映画化され、続編も作られた。また、時代劇監督としても知られ、数々の時代劇作品を撮り続けた。

1980年に銃刀法違反の容疑で逮捕され、フジテレビを依願退職する。その後の活動再開第1作が『鬼龍院花子の生涯』である。

後に『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『櫂』は、宮尾登美子とのコンビ作品で「高知三部作」とも呼ばれた。
1985年には自ら映画制作プロダクション「五社プロダクション」を設立。また、映画『世界最強のカラテ キョクシン』(1985年、極真映画製作委員会)の総監修や、映画『陽炎II KAGERO』(1996年、松竹・バンダイビジュアル)の脚本監修も手がけていた。

後年、二代目彫芳の手により刺青を全身に彫ったことを娘に明かした。

安藤昇とは親友。『新三匹の侍』の企画段階で、五社自ら安藤をレギュラーに推薦して起用した。



      
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1902年(明治35年)3月18日 - 1970年(昭和45年)8月30日 月形 龍之介 つきがた りゅうのすけ ( 俳優 )

2011.08.28

category : 映画

月形 龍之介 つきがた りゅうのすけ ( 俳優 )

来歴・人物

宮城県遠田郡出身。

戦前から剣戟映画の剣士役で活躍、悪役や脇役が多かった。サイレント全盛期は、阪東妻三郎と共演することも多く『影法師』や『悪魔の星の下に』『砂絵呪縛』などにその名をとどめている。

若い頃は、妻子ある身でありながら「日本映画の父」といわれた牧野省三の四女・マキノ輝子と不倫。駆け落ちをした挙句、一女を儲けている。これでマキノ映画を一時解雇されたが、後に輝子とはきっぱり別れて古巣に帰参している。

サイレント末期からトーキー初期にかけては、伊藤大輔監督『斬人斬馬剣』、伊丹萬作監督『忠次売り出す』などの名作にも主演したが、当時のフィルムには散逸や焼失したものが多い。

この頃の月形は持ち前の「熱さ」で、当たり役とした織田信長のような気性の荒い熱血漢を演じることが多かった。しかし、歳を重ねるにつれて重厚な「渋さ」へと変わっていった。戦時中の代表作には、黒澤明監督の『姿三四郎』で演じた檜垣源之助や、稲垣浩監督の『無法松の一生』で演じた結城重蔵があるが、どちらとも重厚な演技で場面を引き締めることに貢献している。


戦後の占領時代にはGHQによって剣劇が禁止されていたため、大映の現代劇に出るようになる。昭和24年 (1949) の『透明人間現わる』では、あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、それまでに経験したことがない役どころを演じているが、月形は年齢設定が自身の実年齢よりも大幅に上まわるこの老け役に、抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功している。

その後に招かれた東映では、片岡千恵蔵と市川右太衛門に続く東映時代劇の重鎮として活躍、新参者でありながら仲間からは「おっさん」「ガタさん」などとあだ名されて親しまれた。月形は実際に老けて見えたので、この頃から老人役が増えていった。戦後はとくに『水戸黄門漫遊記』シリーズの水戸黄門や大久保彦左衛門、『大菩薩峠』の裏宿の七兵衛などが当たり役として大評判となった。一方、本来の剣豪役としては『新吾十番勝負』の武田一真が印象深い。

昭和32年 (1957) には「月形龍之介映画生活三十八周年記念映画」と題して東映オールスター映画『水戸黄門』が製作され、片岡千恵蔵、市川右太衛門ら幹部俳優、大河内傳次郎、大友柳太朗、初代中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、進藤英太郎、入江たか子、千原しのぶ、六代目坂東蓑助、桜町弘子、また端役ながら河部五郎、市川百々之助という往年のスターが勢ぞろいし、その年の邦画興行成績第三位の成功を収めている。

晩年はテレビ時代劇にも出演したが、映画だけで生涯に500本近くもの作品に出演している。

1970年8月30日死去、68歳だった。



      
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1931年1月20日 - 1984年8月30日 有吉 佐和子 ありよし さわこ ( 小説家、劇作家、演出家 )

2011.08.28

category : 作家・随筆家

有吉 佐和子 ありよし さわこ ( 小説家、劇作家、演出家 )

経歴

長州藩士有吉熊次郎は曽祖父にあたる。横浜正金銀行勤務の父の赴任に伴い、小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィア及びスラバヤで過ごす。1941年に帰国後、東京市立第四高女(現・都立竹台高校)から疎開先の和歌山高女(現・和歌山県立桐蔭高校)へ。その後、光塩高女を経て、府立第五高女(現・都立富士高校)卒業。東京女子大学英文学科に入学したが休学後1952年同短期大学部英語学科卒業。大蔵省外郭団体の職員を経て舞踊家吾妻徳穂の秘書となる。大学在学中から演劇評論家を志望し、雑誌『演劇界』嘱託となる。同人誌『白痴群』、第15次『新思潮』に参加。1956年に『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビューを果たした。初期には主として日本の古典芸能を題材とした短編が多いが1959年、自らの家系をモデルとした長編『紀ノ川』で小説家としての地位を確立した。1962年、神彰(興行師。離婚→他人と再婚後に居酒屋チェーン「北の家族」を経営)と結婚。長女として有吉玉青をもうけるが神の事業の失敗により1964年に離婚した。1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』や『複合汚染』が大きな反響を呼び、いわゆる「社会派」的イメージが定着した。その流れの中で、第10期中央教育審議会委員に任命されたほか、参院選全国区に出馬した市川房枝の応援や、「四畳半襖の下張」裁判の弁護側証人として東京地裁で証言するなどの社会的活動も行った。 またしばしば国内外へ取材旅行に出かけ1959年から1960年にかけてロックフェラー財団の奨学金を得てニューヨーク州のサラ・ローレンス大学に9ヶ月間留学、1970年 - 1971年にはハワイ大学で半年間「江戸後期の戯曲文学」を講義している。 特に中国との縁が深く(後述)、1961年には亀井勝一郎らと国交回復前の中華人民共和国を訪問し、以後たびたび招待された。1965年には天主教(中国におけるカトリックを指す)調査のため半年滞在し、1978年には『有吉佐和子の中国レポート』執筆のため人民公社に入っている。 この他1968年には友人の文化人類学者畑中幸子が調査中だったニューギニア山中の村を訪れている。 1984年8月30日未明、急性心不全のため都内の自宅で死去。53歳だった。



      
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1926年(大正15年)11月3日 - 1995年(平成7年)8月30日 山口 瞳 やまぐち ひとみ ( 作家、エッセイスト )

2011.08.28

category : 作家・随筆家

山口 瞳 やまぐち ひとみ ( 作家、エッセイスト )

生涯

東京市麻布区に生まれ育つ。父親はアイディアマンの実業家。母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者の娘で(ただし、その事実は、終生子供には隠していた)、美人で社交的で粋な女性。非常に雰囲気が明るく、交友関係も広く、派手な家庭であった。長唄三味線家元の杵屋勝東治、その息子である、後の若山富三郎、勝新太郎も出入りしていた。

父親の事業が一時失敗し、落魄して川崎の尻手付近に「都落ち」したこともあり、山口の中ではその赤貧時代が原風景としていつまでも残り、派手好きでありながら、一方で非常に謹直であるという複雑な性格の元となった。家族の間では「冷血動物」とあだ名されたという。

小学校時代は、野球に熱中し、同級生に元東急フライヤーズ投手の黒尾重明がいた。旧制麻布中学を経て旧制第一早稲田高等学院を中退。

兵役の後、1946年に鎌倉アカデミアに入学し、在学中から同人誌に作品を発表。なお、鎌倉アカデミア時代には、歌人吉野秀雄に師事した。

小出版社・国土社に入社して編集者となる。だが、正式の大学を出ていないことに対するコンプレックスを指摘されたことと、また、師事していた高橋義孝から「正式な大学を出れば、もっと大きな出版社に紹介してあげる」と言われたことから、國學院大學文学部に入り直し、1954年に卒業。河出書房の「知性」編集部に勤務していたが、1957年3月に同社が倒産。同誌の続刊を図る編集長の小石原昭に従って新設の知性社に移るも、同誌は2号で廃刊となったため再び失職。

1958年、開高健の推薦で壽屋(現・サントリー)に入社。PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍する。ハワイ旅行が当たる懸賞のコピー「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」が代表作。

「婦人画報」に連載した『江分利満氏の優雅な生活』で、1963年に第48回直木賞を受賞、同作品は映画化もされた。受賞後しばらくは二足の草鞋を履いたが、「週刊新潮」の伝説的編集者斉藤十一からコラムの連載依頼を受けたことから、文筆業に専念するためにサントリーを退社。

代表作は、「週刊新潮」に1963年から31年間、延べ1614回、死去まで一度も穴を開けることなく連載を続けたコラム・日記の『男性自身』シリーズ、自らの両親の生い立ちを題材とした『血族』(第27回菊池寛賞受賞)、『家族』など。競馬や将棋、野球に造詣が深く、全国の地方競馬場を踏破した『草競馬流浪記』、プロ棋士と駒落ちで対戦した記録『山口瞳血涙十番勝負』、プロ野球から草野球まで、野球に関するエッセイをまとめた『草野球必勝法』などの著書もある。

なお、山口の著書の表紙絵、挿絵は、その多くをサントリー時代からの友人である、柳原良平が担当している。

糖尿病を患っていたが、克服。晩年は小説の執筆をやめ、『男性自身』に集中して仕事をしていた。死の直前は肺癌が急速に悪化。本人には告知されず、家族がホスピスへ移すことを相談している最中に突然、状態が急変し、死去。死が急であったため、結果的に、『男性自身』は「アナ空き」がないことになった。

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1915年8月29日 - 1982年8月29日 イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman ( 女優 )

2011.08.28

category : 映画

イングリッド・バーグマン Ingrid Bergman ( 女優 )

生涯 [編集]

ストックホルムにて、スウェーデン人の父親と、ドイツ人の母親の元に生まれる。バーグマンが3歳の時に母親が、13歳の時には父親が亡くなり、叔母の家に引き取られる。17歳の時にスウェーデンの王立演技学校(Dramatens elevskola)のオーディションに合格し演技を学ぶようになるが、すぐにエキストラや端役として映画に出演するようになる。1936年には『間奏曲』に主演。1937年(21歳のとき)、歯科医・医師のペッテル・リンドストローム(Petter Lindström)と結婚し、翌年に娘ピア・リンドストローム(女優)を出産する。

その後、『間奏曲』を見たハリウッドのプロデューサー、デヴィッド・O・セルズニックに招かれて渡米して、同作品のリメイクである『別離』(1939年)に主演した。1942年の『カサブランカ』で一躍スターになり、1944年の『ガス燈』でアカデミー主演女優賞を獲得した。

女優として頂点を極めたかに見えたが、イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の作品を見て感動し、すぐさま手紙を送って、仕事と家庭を捨ててロッセリーニの元に走り、彼の映画に出演する。その結果、当時の世論から不倫を激しく非難され、ハリウッドから実質的に追放されたが、後年娘のイザベラ・ロッセリーニが NHK BSプレミアムの番組、『永遠のヒロイン その愛と素顔「わたしを演じる孤独~イングリッド・バーグマン~」』に語ったところによると、母イングリッドは夫のリンドストローム氏にはアメリカ在住時より離婚を申し出ていたものの、受け付けられることがなかったとのこと(1949年3月に離婚を求める手紙を同氏に送り、1950年11月1日にロサンゼルス市にて離婚が正式に成立)。娘のピアとも何年も会わず、親子の確執があったが、後に和解したと伝えられている。

やがて世論も和らぎ、1956年の『追想』に出演して、2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。1974年の『オリエント急行殺人事件』では同助演女優賞を受賞し、生涯に3回オスカーを獲得している。ハリウッドを追放されていた時期も、復帰してハリウッドに戻ってきた時も、変わらず友情を保ってくれたのは俳優のケーリー・グラントただ一人だったという。

ノーベル文学賞作家のヘミングウェイの著書で1930年代後半に起きたスペイン内戦を描いた『誰がために鐘は鳴る』の映画化(1943年)では、『別離』を観た原作者が自ら主人公のマリア役としてバーグマンを指名した。

知性を感じさせる美貌(芸能界では当たり前といわれた美容整形を拒否した)と情熱的な演技で人気を博す。名実ともに20世紀を代表する大女優のひとりである。円熟期に映画出演ができなかったのは、不倫に対する非難を受けたためである。

ロベルト・ロッセリーニと組んで製作された映画は興行的に失敗した。映画界から追放された後、夫婦の生活は経済的にも実質的にも破綻して、やがて夫婦は離婚に至った。結婚中に生まれた双子の娘のひとり、イザベラ・ロッセリーニは母をしのばせる女優である。そしてそのイザベラの娘エレトラ・ロッセリーニは、ランコムの代表モデルを母親から引き継いだ。

1982年に癌のため、67歳で死去。生没同日だった。彼女の墓には「彼女は生の最後まで演技をした」と書かれている。

AFI(アメリカ映画協会)選定の「最も偉大な女優50人」第4位。



      
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1929年5月8日 - 2007年8月28日 ミヨシ・ウメキ Miyoshi Umeki ( ナンシー梅木 ジャズ歌手、女優)

2011.08.28

category : ジャズ

ミヨシ・ウメキ Miyoshi Umeki ( ナンシー梅木 ジャズ歌手、女優)

生涯

兄が進駐軍の通訳をしていた関係からキャンプでジャズを歌うようになり1950年代における日本のジャズ歌手の草分けとして角田孝&シックスやレイモンド・コンデのゲイ・セプテットなどのジャズバンドで人気を博し、ナイトクラブやステージで活躍した。『青春ジャズ娘』(1953)、『ジャズ・オン・パレード1954年 東京シンデレラ娘』(1954)などのミュージカル映画にも出演した。

1955年、音楽の勉強のため渡米した梅木は以後活動の舞台をアメリカに移す。1956年にはCBSテレビの『アーサー・ゴドフリー・ショウ(Arthur Godfrey and His Friends)』に着物姿で出演して英語の歌を歌い話題となった。これが縁となってマーキュリー・レコードでLPアルバムを発表、ここでは英語と日本語を交えて日本とアメリカの曲を歌っている。アルバムタイトルは『Miyoshi Umeki: Miyoshi Sings for Arthur Godfrey』。1958年には同レーベルでセカンド・アルバム 『Miyoshi』 も発表している。

1957年、マーロン・ブランド主演の映画『サヨナラ』で高美似子と共にスクリーンデビュー。この映画の演技でアカデミー助演女優賞を受賞した。これは東洋人の俳優としては初のアカデミー賞受賞であり、また助演女優賞を米国・英国以外の俳優が受賞したのも初めてであった。なお、この年の助演男優賞にはやはり日本人の早川雪洲(『戦場にかける橋』)がノミネートされていたが受賞者は『サヨナラ』でミヨシの相手役であったレッド・バトンズであった。

1958年開演のブロードウェイミュージカル『フラワー・ドラム・ソング(Flower Drum Song)』 に出演したミヨシはトニー賞のミュージカル部門最優秀女優賞にノミネートされ、1961年に映画化された際にも舞台と同じ役を演じた。

その他の映画出演作品には『嬉し泣き(Cry for Happy)』(1961)、『戦略泥棒作戦(The Horizontal Lieutenant)』(1962)、『忘れえぬ慕情(A Girl Named Tamiko)』(1963)などがある。また、1969~1972年にはテレビドラマ『エディの素敵なパパ(The Courtship of Eddie's Father)』にレギュラー出演している。

またゴールデン・グローブ賞に3回ノミネートされている。
ミュージカル・コメディ部門 主演女優賞 『フラワー・ドラム・ソング』(1961)
ミュージカル・コメディ部門 助演女優賞 『サヨナラ』(1957)
ミュージカル・コメディ部門 助演女優賞(連続TV部門) 『The Courtship Of Eddie's Father』(1970)

日本どころか世界に誇れる華やかなキャリア・受賞歴の影で私生活には恵まれなかった。離婚を経験、そして再婚を果たすも再婚相手に先立たれた。ミヨシのショックは尋常でなかったようで、再婚相手の死の後は芸能活動から遠ざかりマスコミの取材などにも応じていなかったため近況は長い間不詳であった。

米国の様々なサイトによると引退後ハワイに移住した後、最近までミズーリ州で息子夫婦や孫と暮らしていたという。2007年8月28日にミズーリ州オザークのリッキングにある医療保養施設で、癌のため死去していたことが伝えられた。



      
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