farewell life (music version)

懐かしのメロディー( 邦楽、洋楽 ジャンルは問わず )などをアップしていきたいと思います。基本的にはその日が命日のミュージシャン、作曲家など動画を交えて紹介してまいります。※敬称は略させていただきます。  亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。 尚、管理人の都合上更新ができなくなる場合がありますのでご了承ください。

検索フォーム
最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
最新トラックバック
京王百貨店
京王百貨店
千趣会イイハナ
e87.com(株式会社千趣会イイハナ)
ふくや
味の明太子ふくや
日本直販
日本直販オンライン
伊勢丹
伊勢丹 : ISETAN MEN'S ONLINE SHOP
au one la Select
au one la Selectサイトロゴ2
いぬ・ねこ の きもち
いぬのきもち&ねこのきもち
Odakyu online shopping
小田急オンラインショッピング
ONWARD KASHIYAMA
オンワード樫山公式ファッション通販サイト
トイザらス・ベビーザらス
ベビーのおもちゃ【ベビーザらス】
ユナイテッド・シネマ
ユナイテッド・シネマ 最新映画を自動更新でご紹介!
ワーナー・マイカル・シネマズ
映画館で並ばずにチケットが買える!
link share
アフィリエイトのリンクシェアで、チャリティ活動

スポンサーサイト

--.--.--

category : スポンサー広告

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

1915年3月20日 - 1997年8月1日 スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Teofilovich Richter ( ピアニスト )

2013.07.31

category : クラシック

スヴャトスラフ・リヒテル Sviatoslav Teofilovich Richter ( ピアニスト )

1915年3月20日、ウクライナのジトームィルでドイツ人ピアニストの父と素封家の母親のもとに生まれた。幼い頃に一家はオデッサに移住した。父親は同地の音楽学校で教師を務め、息子にも音楽の手ほどきをしたが音楽家にしようという気はなかった。父親はその後別れて行動し後にオデッサで処刑され、母親は別の男性と再婚した。 リヒテルは独学でピアノを始め、1931年に15歳にしてオデッサ歌劇場のコレペティートルに採用され多くのオペラ曲の初見を経験した。1934年、19歳の時にショパンのみのプログラムによる小規模な初リサイタルを開き、成功を収めた。

1937年、22歳でモスクワ音楽院に入学し、ゲンリフ・ネイガウスに師事した。彼はその時点ですでに完成されたピアニストだったといわれ、ネイガウスは「何も教えることはなかった」という言葉を残しているが、リヒテル自身はネイガウスから多くの事を学んだと言っている。ネイガウスはリヒテルを天才であるといい、時に荒削りの演奏をあえて治そうとはしなかった。同門のエミール・ギレリスは1歳年下だがモスクワ音楽院では2年先輩にあたる。

リヒテルはネイガウスの紹介によりセルゲイ・プロコフィエフと親交を持つようになり、1943年1月18日にはモスクワでプロコフィエフのピアノソナタ第7番を初演し成功を収めた。翌1944年にはプロコフィエフの3曲の戦争ソナタによるリサイタルを行った。以後ソ連国内で活発な演奏活動を行うようになり、1945年には30歳で全ソビエト音楽コンクールピアノ部門で第1位を受賞した。プロコフィエフが政府から反革命的と批判されたときも常にプロコフィエフと活動を行った。

1950年に初めて東欧で公演も行うようになり、一部の録音や評価は西側諸国でも認識されていた。しかし冷戦で対立していた西側諸国への演奏旅行はなかなか当局から許可が下りなかった。そのため西側諸国ではその評判が伝わるのみで実像を知ることができず、「幻のピアニスト」とも称されるようになった。ソ連の演奏家としては最も早い時期から国際的に活躍していた一人であるギレリスが、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待って下さい」と制したことも、この幻のピアニストへの期待をかき立てた。

1958年にはこの年の2月25日にブルガリアのソフィアで行ったリサイタルの録音が西側でもレコードとして発売された。ムソルグスキーの展覧会の絵などを含むこの録音は不朽の名演奏と称えられ、リヒテルの当代一のピアニストとしての真価を知らしめた。同年に第1回チャイコフスキー国際コンクールが開催され、この大会を制したヴァン・クライバーンが滞在中に聴いたリヒテルの演奏について「生涯で聞いたなかでもっともパワフルな演奏であった」と帰国後に語ったことで、このピアニストの評判はさらに高まることとなった。

翌1959年にはドイツ・グラモフォンのスタッフがワルシャワに乗り込んで録音が行われ、数枚のレコードが発売された。その中でも特にスタニスワフ・ヴィスウォツキ指揮のワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団と共演したラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音はこの作品の決定的名演と称えられ、その評価は現在に至るまで揺るいでいない。

1960年5月にようやく西側での演奏を許可され、ヘルシンキでのコンサートに「伴奏者」として派遣された。同年中にはアメリカへもツアーしてセンセーショナルな成功を収めた。この時に録音されたブラームスのピアノ協奏曲第2番(共演はエーリヒ・ラインスドルフ指揮シカゴ交響楽団)やベートーヴェンのピアノソナタ第23番のレコードも評判となり、いよいよ西側でも本格的にその実像を知られるようになった。

その後は名実共に20世紀を代表するヴィルトゥオーソとして世界を舞台に精力的に活動した。同時代にアメリカを拠点に活動したウラディミール・ホロヴィッツと並び称されることもあった。

日本へは飛行機嫌いのためなかなか訪れることがなかったが、1970年の日本万国博覧会の際に初の訪日が実現した。それ以降は度々来日してリサイタルを開き、日本の音楽ファンにもなじみ深い存在となった。

オレグ・カガンをはじめとする他の演奏家との共演も活発に行い、西側を含む各地で音楽祭を主催した。特に1981年から毎年冬にプーシキン美術館で開催した音楽祭「12月の夕べ」は絵画の展示とテーマを共有するユニークなスタイルのものだった。晩年に至っても技巧の衰えを豊かなタッチで補いつつ意欲的な活動を続けた。

特に彼の理想としていたのは、ピアノをトラックに積んで旅行し、前触れなく教会のある街でピアノを無料で演奏し、また旅にでるという生活であり、それに近い形の多くのコンサートを行った。

1997年8月1日、モスクワで82年の生涯を閉じた。生涯の伴侶であったニーナ・ドルリアも同年に亡くなっている。



      
wikipedia jp     wikipedia eng
スポンサーサイト

comment(0)  trackback(0)

1937年2月7日 - 2007年8月1日 阿久 悠 あく ゆう ( 放送作家、詩人、作詞家、小説家 )

2013.07.31

category : 歌謡曲

阿久 悠 あく ゆう ( 放送作家、詩人、作詞家、小説家 )

阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する)。長男は作曲家の深田太郎。

両親とも宮崎県の出身。幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。兵庫県立洲本高等学校卒業、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に宮崎に戻ったという。

広告代理店・宣弘社でコピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。また番組の企画書を書かせたら日本一とも言われたほどである。歌詞の処女作はザ・スパイダースのグループ・サウンズデビュー曲「フリフリ」のB面である「モンキーダンス」。本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」。このタイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという。また、この頃よりオフィス・トゥー・ワンに所属する(死去まで)。

その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであったが、あのスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。

上記の作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。しかし、1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し彼等のつづった叙情よりも感性や実体験の詞が受けるようになり、さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康が台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。

直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリ大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。

2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。

日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。

また、第49回日本レコード大賞では特別功労賞、第45回ゴールデン・アロー賞では芸能功労賞が贈られた。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1948年3月19日 - 2004年7月31日 朱里 エイコ しゅり エイコ ( 歌手 )

2013.07.30

category : ポップス

朱里 エイコ しゅり エイコ ( 歌手 )

1972年に「北国行きで」でヒットを出したころから、実力重視ではなく、ヒット曲重視の日本の芸能界に疑問を抱き始める。 ヒットがなければテレビに出られない、なぜ自分は日本人に受けいれてもらえないのだろうか、ということに葛藤し続けた。

特にこの頃日本では、アイドル歌手が全盛の時代であり、周りから実力派といわれるようになってからも、人一倍努力を怠ることなく様々な経験を積んできただけあって、このギャップがさらに彼女を苦しめることになる。 ヒット曲がなかなか出ず、世間から忘れられてしまうのではないか、という焦りも付きまとった。

鬱病状態に陥りながらも、なんとかステージをこなしていたが、1983年6月に名古屋で3度目の失踪事件を起こしてしまう。 この後しばらく入院したが、彼女の復活を望む声は多く、また徐々に活動を始める。

しかし悲劇は続いてしまう。赤坂コルドンブルーに出演して1週間たったある日、開演時間を過ぎても会場に現れない彼女を心配し、関係者が品川区の自宅を訪ねた。すると部屋でパニック状態に陥り、苦しみ悶えている姿で発見される。彼女が精神科で出されていた薬と、直前に飲んだ栄養ドリンクが異常な症状を出すという、いわゆる薬の飲み合わせによるものだった。 結局この日の公演は中止になり、この事件で彼女は信用を失ってしまう。

さらにはストレスなどいろいろなことが重なり、肝臓病を患ってしまう。生きるか死ぬかという状態が続き、5年という長期にわたって入院生活が続いた。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1948年1月25日 - 1988年7月31日 前野 曜子 まえの ようこ ( 歌手 ペドロ&カプリシャス )

2013.07.30

category : ポップス

前野 曜子 まえの ようこ ( 歌手 ペドロ&カプリシャス )

1965年、川村高等学校を2年で中退し宝塚音楽学校に進む。1967年、53期生として宝塚歌劇団ヘ入団。同期は54名で当時の芸名は弓千晶(ゆみ・ちあき)。1968年宝塚歌劇団退団。

伝説のディスコ赤坂「MUGEN」でゴーゴーガールを務める。宝塚時代に知り合った亀渕友香と「MUGEN」で再会し、リッキー&960ポンドに参加。翌1969年、『ワッハッハ』がヒット。この頃は西丘有里と名乗る。

1971年、リッキー&960ポンドと同じ事務所に所属するペドロ&カプリシャスにヴォーカルとして参加。

1971年10月発売の『別れの朝』が大ヒットし一躍人気・仕事の絶頂のさなかだった1973年、突然の脱退を発表して単身渡米もその後数ヶ月で帰国した。当時のあるテレビ芸能ニュース番組では「米国留学のため」と放送された記録が残っているが、脱退については1972年11月頃発売分の『週刊女性』では前野が深酒に因る仕事上の失敗を繰り返していた上、恋仲となった米国人男性の元への出奔、早期の帰国については1973年10月頃発売分の『週刊朝日』で恋人との破局や米国生活の限界が重なったのが原因との記事が掲載されるなど、具体的な面に触れた報道はなかったがいずれもすっきりしない脱退劇と前野にとって残念な結末を辿ったことが垣間見られた出来事であった。

帰国後は、事務所に所属せずマネージャーもつけずにソロとしてライブハウスなどで歌手活動を再開した。1976年に古巣のリッキー&960ポンドに復帰(のち3年間所属後再び脱退)。

1976年暮れごろから、前野の親友でもあり同じく若くして亡くなったジャズ歌手木村芳子 がリーダーで歌っていた六本木のジャズバー J&B <ロアビルの前、道路を渡った地下にあった>のバンド仲間に会いに夜よく顔を出していたが、当時は酒を飲んでいることが多かった。 この当時前野はここから歩いて15分ほどの赤坂小学校そば赤坂7丁目のマンションに住んでいて時折<鎌倉>から母が様子を見にやってきていた。

<また当時のある女性週刊誌の記事内で母が<大磯>から曜子の部屋を時折掃除しに来る、との記述があるが、少なくとも1977年当時は(母は鎌倉から時折来てくれる)と直接曜子から聞いた人物がいる。 そしてその後、草月会館裏近くの赤坂7丁目を経て80年代初頭には六本木に近い赤坂2丁目と住居を移した>

翌年1977年9月、リッキー&960ポンドとアルバム ABRAZAME を録音。このアルバムの中に収録された別れの朝 が最高の出来との評価もある。この名曲、名唱<別れの朝>はちなみに3バージョンある。

1976年から1977年にかけて前野は日本人ミュージシャンと付き合っていたが、その彼が8月初めに二度目の渡米で日本を去ることになった。 この翌月の9月に録音されたLP『ABRAZAME』の中の1曲<雨のエアポート>は前野曜子が作詞をしており、この別れの悲しみをこの歌に託した。 実はこの詩の中にその彼の名前が潜んでおり、一人になった寂しさゆえ彼の渡米後、前野は犬を飼い彼の名前をつけて呼んでいた。

(1979年8月14日発売の週間女性誌のインタビュー記事内で76年以前の生活について<黒人ミュージシャンとの交際中に、前野曜子はロサンゼルスで、一人の日本人青年と出会った。Xという二歳年下の若者も、彼女と同じように音楽の勉強に来ていた。黒人ミュージシャンとの交際、日本人青年との愛のなかで、彼女は人間として成長していった。、、>とインタビューに答えている)。

翌1978年春、前野は新しい彼氏、作曲家、アレンジャーのK氏と共にニューヨークを短期間訪れ、二人でこの元彼のロフトを訪ねている。 このK氏の力により角川映画出演が可能となり、復帰の大きな足がかりとなった(奇しくもこのK氏も1988年、40歳の若さで亡くなっている)。

1980年代初期には自己のバンドを組みリサイタルを行った。この1980年当時の住居は六本木近くの赤坂2丁目であった。このときのバンド仲間との何枚かの写真では、彼女の生き生きとした表情が見てとれる(この後間もなくして病床に倒れたようだが、この辺りから彼女の詳細を知るものが殆どいないのが実情のようである)。

1979年に映画『蘇える金狼』の主題歌(タイトル同じ)をリリース。同年末には『平凡パンチ』でセミヌードを公開する。1980年、映画『野獣死すべし』に、セリフのない役でカメオ出演。1982年から始まったテレビアニメ『スペースコブラ』(フジテレビ)のテーマ曲を歌っている。

しかし上記の通り芸能活動に復帰・継続はしたものの、前出のペドロ脱退の経緯や、前野自身アルコール依存など健康上の問題が愈々深刻化するなど、結局往時のような成功・活躍をおさめることはついにできないままに終わった。

1988年7月31日、持病の肝臓病が悪化し心不全により40歳の若さで死去していたことが、逝去から2年半以上後となった1991年4月頃発売分の『女性自身』で報道された。稀な美貌と歌唱力を持ち合わせ、デビュー時は業界・ファンからも期待されていた前野であったが、あまりにも寂しい晩年・最期であったことを窺わせた。墓所も不明である。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1911年2月18日 - 1975年7月31日 加東 大介 かとう だいすけ ( 俳優 )

2013.07.30

category : 映画、テレビ・ラジオドラマ

加東 大介 かとう だいすけ ( 俳優 )

兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という芸能一家に生まれる。宮戸座の座付き作者で演出助手だった父の影響で、兄とともに歌舞伎の世界に入る。東京府立第七中学校を卒業後、1929年に二世市川左団次に入門、1933年に前進座に入り、市川莚司を名乗る。まるまるとした肢体に似ぬ精悍さで、山崎進蔵(河野秋武)、市川扇升とともに前進座の若手三羽烏として活躍する。同年には大日本自由映画プロの『段七しぐれ』で映画デビュー、その後は山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)や『人情紙風船』(1937年)などに出演し、中堅俳優の一人として広く知られるようになる。

兵役を1933年に伍長勤務上等兵(後の兵長)で除隊し終えていたが、1943年に陸軍衛生伍長として応召。ニューギニア戦線で、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられ、長谷川伸の戯曲『瞼の母』などを演じる。舞台に降る「雪」に故国を見た兵士たちの姿を描いた記録は、小説『南の島に雪が降る』に結実する。なお、その時劇団で一緒だった九州出身の僧侶が、漫画家小林よしのりの母方祖父である。戦後もたびたび彼の寺を訪れていたという。

1946年に復員するも、直後に戦地でかかった悪性マラリアが再発し、一時は危険な状態が続く。回復してからは再び役者として活動するが、左傾した前進座に嫌気が差して退団、兄の国太郎、姉の貞子とともに神技座を結成するも、運営が上手く続かず映画入りを決意する。1948年からは大映京都と専属契約し、同年の東横映画『五人の目撃者』では作品が現代劇であったことから、歌舞伎役者くさい莚司という芸名から加東大介に改名する。

1950年に黒澤明監督の『羅生門』に出演したのち、1951年秋にフリーとなり東宝に移籍する。以降、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)をはじめ、黒澤作品に常連として出演する。1952年に黒澤脚本の『決闘鍵屋の辻』、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』での明朗できびきびとした演技が批評家から絶賛され、1952年度の毎日映画コンクール、ブルーリボン賞の男優助演賞を受賞、1955年には今井正監督の『ここに泉あり』、内田吐夢監督の『血槍富士』で2度目のブルーリボン助演賞を受賞した。

持ち前の明るさや誠実さで多くの監督から可愛がられ、黒澤や成瀬の他にも小津安二郎などの作品にも常連俳優として出演し、この時期は監督運にも恵まれる。また1956年に東宝がダイヤモンド・シリーズと銘打った文芸映画『鬼火』で主演したことがきっかけで、監督の千葉泰樹に獅子文六の連載小説『大番』の主人公・株屋のギューちゃん役に抜擢され、加東はユーモラスでエネルギッシュな男を演じ、映画は大ヒット。大番シリーズは4本も作られ、ギューちゃんのあだ名はそのまま加東自身の代名詞となるまでになった。また森繁久彌、小林桂樹と共演した『社長シリーズ』でも軽妙な重役を演じるなど、日本映画にかかせない名脇役として人気を博した。

『週刊朝日』の夢声対談でニューギニアでの戦争体験を語ったところ、徳川夢声から是非執筆するよう強く勧められ、1961年に『文藝春秋』で「南海の芝居に雪が降る」を執筆。これにより第20回文藝春秋読者賞を受賞、ベストセラー小説となった。また小野田勇の脚色によって『南の島に雪が降る』の題でNHKでドラマ化され、後東宝で映画化され加東自身が主演して大いに話題となる。

晩年は映画のみならず、テレビや舞台でも活躍、1971年には28年ぶりに前進座の舞台にも立った。1972年には大河ドラマ『新・平家物語』で北条時政を演じた。1975年2月に結腸がんで入院、本人はがんであることは知らず、病院からレギュラー出演であるドラマの収録現場に通い続けたが、入院してから5ヵ月後の7月31日に64歳で死亡した。遺作は倉本聰脚本『6羽のかもめ』のマネージャ役。『七人の侍』の中では生き残った侍であったにも関わらず、最初に鬼籍に入る。下町っ子らしい気っぷの良さで誰からも好かれた反面、一滴の酒も飲まなかったという。

甥には長門裕之、津川雅彦の役者一家。息子・加藤晴之は、黒澤明の娘・黒澤和子と結婚して孫・加藤隆之(俳優)が産まれるが離婚。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日 谷崎 潤一郎 たにざき じゅんいちろう ( 小説家 )

2013.07.29

category : 作家・随筆家

谷崎 潤一郎 たにざき じゅんいちろう ( 小説家 )

明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。

初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることも少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷を続けた。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作をものしたが、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と文体や思想における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎」と称された。



      
wikipedia jp     wikipedia eng

comment(0)  trackback(0)

1941年9月19日 - 1974年7月29日 キャス・エリオット Cass Elliot ( 歌手 ママス&パパス )

2013.07.28

category : フォーク

キャス・エリオット Cass Elliot ( 歌手 ママス&パパス )

ポップ・カルテット、ママス&パパスのママ・キャス Mama Cassとして記憶されている。彼女はグループが解散した後もソロ歌手として成功し、9枚のアルバムをリリースした。ロンドン・パラディアム劇場での満員となった2回の公演の後、ロンドンの自室で心筋梗塞により死亡しているエリオットが発見された。



      
wikipedia jp     wikipedia eng

comment(0)  trackback(0)

1905年(明治38年)4月20日 - 1989年(平成元年)7月29日 辰巳 柳太郎 たつみ りゅうたろう ( 俳優 )

2013.07.28

category : 映画

辰巳 柳太郎 たつみ りゅうたろう ( 俳優 )

兵庫県赤穂郡坂越村(現・赤穂市)生まれ。少年時代に養子に出されるも、養家を13件も転々としながら大阪市立甲種商業学校(現・大阪市立天王寺商業高等学校)を中退し、1926年(大正15年)に旅回りの一座に入り長野で初舞台を経験する。半年後、小林一三主宰、坪内士行文芸部長の「宝塚国民座」に入団、東伍作の名で舞台に立つ。

その後、新国劇の澤田正二郎の魅力に引かれ1927年(昭和2年)、道頓堀の浪花座で公演中の澤田を楽屋に訪ね弟子入りを直談判し新国劇への入団を許される。新国劇での初舞台では『国定忠治』の駕篭かき役を演じた。その後、芸名を「辰巳柳太郎」と改める。芸名は師匠の澤田が辰年、柳太郎が巳年生まれだったことに由来する。しばらく端役が続いたが1929年(昭和4年)、澤田が急死すると俵藤丈夫文芸部長によって島田とともに澤田の後継者に大抜擢される。抜擢の理由は沈着冷静な島田と明るく奔放な柳太郎を合わせると澤田の芸風に似たものが出来るだろうという考えからであった。

その後『大菩薩峠』の机龍之介や『宮本武蔵』の武蔵、『無法松の一生』の富島松五郎、『王将』の坂田三吉などの主人公を豪放磊落に演じきり島田と共に二本柱として新国劇を支える。

戦後になると映画界に進出し1949年(昭和24年)に『どぶろくの辰』で初出演、以降は映画でも島田とたびたび共演したのをはじめ1954年(昭和29年)には日活の映画製作再開に伴い劇団ぐるみで同社と契約、映画界においても「辰巳・島田ブーム」を巻き起こした。しかし大衆演劇の衰退と共に新国劇の観客数は減少、1987年(昭和62年)、70周年記念公演終了後、新国劇は解散することになる。解散の2年後、1989年(平成元年)に死去。弟子に大友柳太朗、緒形拳らがいる。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

1971年1月23日 - 2009年7月28日 川村 カオリ かわむら カオリ ( 歌手 )

2013.07.28

category : J ポップ

川村 カオリ かわむら カオリ ( 歌手 )

父親が日本人(商社駐在員を務めていた川村秀・現日露文化センター代表)で母親がロシア人(母、エレーナ・アレクサンドロヴナ・スクドノーヴァ)のハーフ。モスクワで生まれる。幼い頃に正教の洗礼を受ける。聖名はアナスタシア(ギリシャ語で「復活」「復活した女」を意味する)。

11歳の時に家族と共にモスクワから千葉県に移住。帰国後に編入した小学校で、「純粋な日本人ではない」、「ハーフ」と揶揄を受け、壮絶ないじめに遭う。上履きを隠され、教科書を破かれ、給食にゴミやゴキブリを入れられ、「川村かおりを殺す会」が作られるまでに至った。都内の中学校に進学した1983年、ソ連による大韓航空機撃墜事件が起きる。教師から「この外道が! ソ連に帰れ!」といわれのない非情な言葉を浴びせられたという。 時には刃物で傷つけられる事もあったという。

1986年、東京都立田柄高等学校に進学。選択教科は音楽ではなく美術。新宿Loftやツバキハウスなどに頻繁に出入りするようになったのもこの時期である。そこで音楽関係者と知り合い、後にデビューの足掛かりとなった。

1987年、都立校を中退し渡英。ライブハウスに通い詰める。暫くして英国四天王寺学園高等学校(2000年閉鎖)に編入、単位を修得し卒業。程なく帰国する。

1988年に辻仁成プロデュースにより、シングル「ZOO」および同名アルバムでデビュー。

1990年、「神様が降りてくる夜」が『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』のテーマ曲となりヒットする。1991年には「翼をください」もヒット。音楽番組だけではなくバラエティ番組などにも出演するようになる。また、モデルとして雑誌やショーに出演する機会が増えた。

1989年4月から1991年6月までニッポン放送『オールナイトニッポン』土曜2部のパーソナリティを務めた。番組中、電話でゲスト出演した大槻ケンヂと同じ、田柄高校の出身と分かり、話が盛り上がる。また当時のソビエト連邦大統領、ゴルバチョフにリスナーから質問をする趣旨を掲げた「ゴルバチョフへの手紙」というコーナーもあり、簡単なロシア語を披露した。実際にロシア語で綴った手紙を大使館を通じてゴルバチョフに届けたことがある。それがきっかけとなり、大統領と電話で話す機会を得るなど話題となった。ゴルバチョフの来日が決定すると、当時の内閣総理大臣であった海部俊樹の名前で晩餐会への招待状が届く。短時間ではあったが面会も叶い、その模様も番組で放送された。「子どもの頃はコンプレックスであった自分の血を、いまは胸を張って誇りに思える」と語った。

1991年、『東京の休日』で映画初主演。1992年、エッセイ集『volume―僕の手の中』を発表。

1993年より活動休止し、ニューヨーク等で生活。1995年6月、音楽活動を再開。所属レコード会社を移籍し、シングル「Big Beat」を発表した。1996年、NHK-BSのテレビドラマ『新宿鮫』に出演。1997年、『新宿鮫・毒猿』に出演。

1998年、クラブ向きの音楽制作を目的としたソロプロジェクト「SORROW」を開始し、クラブイベントでのDJとしても活動を始めた。また、モデルの坂田かよと共にクラブイベント「696」を開催。この頃、「川村かおり」から「川村カオリ」に改名した。また同年、母が乳癌で永眠。

1999年2月、バンド「SOBUT」のギタリストであったMOTOAKIと結婚。同年、手塚眞監督の映画『白痴』に出演。

2000年、「SORROW」のメンバーに中村達也を加えてイベントを全国で展開。以降、夫を含む4人編成のバンドとしてインディーズで活動を続ける。MOTOAKIとの写真集『True Romance』(撮影:ニッキー・スターキー)を出版。

2001年、ツアーの様子を自ら撮影したドキュメンタリー映画『696 TRAVELING HIGH』を発表した。同年、行定勲監督『贅沢な骨』に出演。また同年12月には長女を出産。

2003年、ユニバーサルミュージックよりアルバムを発表し、メジャーデビュー。またこの年からMOTOAKIとの別居生活を始めた。

2004年、乳癌が発覚。左乳房の切除手術と抗がん剤治療を経て、2005年に芸能活動を再開した。9月、フォトエッセイ『Helter Skelter』を発表。少女期に受けたいじめや、音楽活動の紆余曲折、乳癌を患った事とその闘病生活などを明かした。2006年、手塚眞監督の映画『BLACK KISS』で主演を務める。

また、国内アパレルブランドのモデルとしてパリ・コレクションなどのファッションショーに出演。

2007年、「SORROW」の活動休止(実質解散)を発表。同年、北村龍平監督の『LOVE DEATH』に出演。6月には3年半の別居の末MOTOAKIと離婚。また、6月20日に発売されたTHE NEATBEATSのアルバム『JAPANESE ROCK & ROLL ATTACK!!ロックンロールの逆襲〜日本編』に、「ロックンロール・ウィドウ」のカバーで参加。9月29日、ピンクリボン運動のイベントでトークショーに出演。「年に1度はマンモグラフィー検査に行ってほしい」と訴えた。イベント終了後の記者会見では、話し合いを経て共に悔いの無い心境で離婚届を提出した事、長女の親権は川村が持つ事などを明かした。

2008年10月1日、ブログで癌の再発を発表。同日に参加したピンクリボンフェスティバル終了後の記者会見では、昨年関節炎と診断された胸の痛みの原因が実際は癌である事が1月に判明、リンパ節・骨・肺の3ヶ所に転移しており、手術が不可能なため点滴での抗がん剤治療を続けている事を明かした。

2009年1月23日、11年ぶりの誕生日ライブを東京・原宿アストロホールで行う。「バタフライ」など7曲を歌った。

3月22日、東京渋谷HMVでシングル「バタフライ」と書籍『MY SWEET HOME』の発売記念インストアライブにて、トークと「バタフライ」を1フレーズ歌い、握手会を行った。

4月4日、単発特番の川村カオリのオールナイトニッポンが放送される予定だったが、体調不良のため川村本人は生出演せず、急遽『川村カオリのためのオールナイトニッポン』として放送された。MCは構成作家の鈴木おさむ。

5月5日、東京渋谷CCレモンホールにてライブを行った。全席完売の会場で全13曲を歌い、合間にオールナイトニッポンの公開録音を行った。公演中は椅子に座った状態だったが、アンコールの『ZOO』ではギターを抱えて立って歌った。ゲストは鈴木祥子、浅井健一、高橋研、吉川晃司、渡辺俊美、鈴木彩子で、13年ぶりのフルアルバム『K』に参加したメンバーが入れ換わりで演奏した。

5月27日、13年ぶりのフルアルバム『K』を発売。同年7月1日、ブログで癌の新たな転移が見つかったことを報告。

7月28日午前11時01分、乳癌のため都内の病院にて永眠。38歳没。

正教徒であったカオリのために、7月30日晩にパニヒダ(通夜)が、31日昼に埋葬式(葬儀)(埋葬式は主教祈祷)が、日本正教会最大の教会であるニコライ堂で行われた。友人・知人からの献花の後、聖堂に川村のCD、ギター三本などが聖堂内に並べられた。喪主は、カオリの弟である川村忠が務めた。



      
wikipedia jp     wikipedia eng

comment(0)  trackback(0)

1969年6月11日 - 2002年7月29日 三木拓次 みき たくじ ( ミュージシャン RAZZ MA TAZZ )

2013.07.28

category : ロック

三木拓次 みき たくじ ( ミュージシャン RAZZ MA TAZZ )

RAZZ MA TAZZ

大阪の高校で同じクラスだった阿久と横山はそれぞれ別のバンドを組んでいたが、卒業と同時に双方解散となったため2人で組む。後に三木・入江・三村が加入し、1989年RAZZ MA TAZZ結成となる。

「RAZZ MA TAZZ」は横山がジャズ雑誌から見つけた言葉で、「輝かしい」「はつらつとした」という意味のスラング・俗語である。
しかしこの言葉は俗語であるが故に多様な意味を持ち、バンドの思想とは逆の「乱痴気騒ぎ」などと取られることもある。
1994年、フォーライフ・レコードよりシングル『Private Eyes』でメジャーデビューした。洗練された楽曲をリリースしていたが、1999年のアルバム『Sanctuary』を契機とし、その後2枚のベストアルバムを残して解散した。

解散後、俳優を目指した入江以外のメンバーは個々に音楽活動を続けていたが、2002年三木が膵臓癌で死去した(享年33)。これにより5人での復活は叶わなくなったが、2005年阿久と横山が「razz.」として活動を開始した。razz.の公式ページでは「ラズ 第二章」を謳い、RAZZ MA TAZZサウンドの継承を示していたが、2008年5月にリリースされた2枚目のアルバムを最後に活動停止している。



      
wikipedia jp

comment(0)  trackback(0)

カテゴリ
リンク
インターネットお取り寄せショップ
懐かしのメロディリクエスト掲示板
Fujitsu
【125*125】特価品
ブックオフオンライン
ブックオフオンライン
チケットぴあ
チケットぴあ
Fujitsu
富士通パソコンFMVの直販サイト富士通 WEB MART
Amazon 無料配送
book off online
ブックオフオンライン
ANA旅行積立プラン
ANA旅行積立プラン
HMVジャパン
HMVジャパン
iTunes Store(Japan)
 iTunes Store(Japan)
iTunes Store(Japan)
 iTunes Store(Japan)
Sony Music Shop
Sony Music Shop
仁丹堂
創業116年目の新JINTAN
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
blogmura
follow us

Copyright ©farewell life (music version). Powered by FC2 Blog. Template by eriraha. Photo by sozai-free 2000px.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。